| 井 |
ほな自分が見たかったら、いそやんを連れて行けばええんやね。
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| 礒 |
そうそう。「遜彦さん、今度は阪妻ありまっせ」「ぜったい行く!」言うてね。ほんで子供の時から映画行ってましてん。
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| 井 |
当時の新京極は、1番館ばっかりですか。
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| 礒 |
そらもう、ずーっと賑やかなもんどした。2番館もありましたよ。(地図を見ながら)松竹京映言わんと、当時は「京映」言うてたと思うな。昭和20年ごろはピカデリーが松竹劇場言うてたし。夷谷座言うてたんは、戦争が始まる前やと思います。昭和15、6年、僕は5つか6つの頃から見てます。
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| 井 |
その頃から見てはって、その当時の新京極は戦争の影が濃くなってきたと思いますが、賑やかでしたか。
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| 礒 |
そら賑やかでした。
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| 井 |
興行は朝の何時ぐらいからしてたんですか。
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| 礒 |
それはわかりませんなあ。日曜日は昼来てましたけど。朝ごはん食べたら「行こか」言うて連れてもろて、ぶらぶら歩いて映画観て、観終わってから昼飯の時がありましたから。朝からやってましたわ。
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| 井 |
昭和37、8年でも、映画のはねる時間て、夜の10時ぐらいまでやってましたよ。
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| 礒 |
そうですね。7時から2本立てで最終が始まるんやから。
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| 井 |
僕の子供の頃でも、朝から晩まで賑おうてた所という印象ありますね。
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| 礒 |
映画すんでから「かねよ」でうなぎ食べて、そうか寺町で「ムラセ」のわらじカツ食べる。ほんで「野澤屋」でおもちゃ買うてもろうて帰るというのが、子供にしたら、嬉しい大感激の日ですわ。
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| 井 |
よう聞きますけど、昔、封建的な時代の従業員さん、丁稚さんは休みが少ないから、休みもうたら新京極界隈へ出てきて、遊んだそうですね。
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| 礒 |
休みは1日と15日ですから。小遣いある時やったら、寺町で首吊りの洋服を買い。
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| 井 |
そうですてね。帰りに「ムラセ」のわらじカツや「スター」で洋食たべたら大散財やった。
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| 礒 |
そうですわ。松竹京映がSY京映になったのは戦後です。洋画チェーンになったさかい、松竹洋画でSYですわ。そやのに「寅さん」やりよるから、おかしいねん。SY京映が寅さんやってどないするねん。
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| 井 |
戦争終わってからですが、北から行くと、京都座。
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| 礒 |
京都座、松竹座、ピカデリーが松竹劇場。あの頃は、瓦の屋根が見えてた。四条から見たら、あそこだけ瓦の屋根がどんと正面に見えてた。3階建ての屋根が、がばーっとね。
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| 井 |
新京極は当時、アーケード無かったんですか。
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| 礒 |
あらしまへん。屋根が直通で見えてました。
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| 井 |
うちのおばあさんやらに聞いたら、戦争の末期の頃は、道路の前のところを畑にしてた言うてましたもんね。
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| 礒 |
そらその時は、人やら居よらへんねんもん、最後の最後は。
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| 井 |
戦後復興して、ぼちぼち興行も始まって、ピカデリーの所(現ろっくんプラザ付近)はどうでした。
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| 礒 |
ここは空家ですわ。ここ3つともなし。ここは香具師が出て、蝮に噛まして薬売ってた。それと青空楽団が出てきて、歌詞カード売ってアコーデオンとギターで一緒に歌を歌わす。「リンゴの歌」やらそんなん歌わせて、歌詞カード売りよる訳。みんなに歌を教えながら、歌詞カードを売っとった。流しのグループ、青空楽団です。
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| 井 |
いま若いストリートミュージシャンがここでそんなんやってまんな。あんまり変わらへん。
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| 礒 |
コマ劇場はストリップやっとって、その間に西条凡児やらが出とった。お色気漫談。ストリップの間にやりまんね。
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| 井 |
コントみたいなもんやね。
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| 礒 |
そやし、ダイマル・ラケットかて、ここ出てたはずですえ。
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| 井 |
コマ劇場に?
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| 礒 |
はあ。寄席になってて、そのあとストリップに変わって、その間にコメディがちょこちょこっと入るやつやった。
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| 井 |
なるほど。むかし梅田コマ劇場の隣に、トップホットシアターいう劇場があって、いとし・こいしとか、横山ホットブラザーズが出てましたな。今の南光さんも、最初にあそこ出たはった。なんで寄席がコマ劇場にあるのかなと思てましたけど、コマ劇場もってる会社は、もともと寄席を持ってたから、その名残りなんでしょうかね?それが京都にもあったちゅう訳でしょうね。
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| 礒 |
そうです、そうです。その時、富貴は寄席で、このストリップが無くなってから、富貴がストリップになりますねん。これは昭和30年ぐらいにならんと。それまで富貴は寄席でした。
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| 井 |
京極ミュージック(ストリップ)は何となく覚えてます。今の大吉の靴屋さんの裏手の方になるんですね。
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| 礒 |
そうそう。角っこに1軒家があって、その横に路地があって、こう向けに劇場がありまんね。蛸薬師の裏側に。ほんで北側に高座があって、客席から北向いて見てた。あの路地が、今の靴屋のこう向こうに入って行くとこですわ。そやし今の靴屋さんは2軒分を使たはるんですわ。
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| 井 |
蛸薬師側が路地になってたんですね。
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| 礒 |
そうです、そうです。蛸薬師側の横から路地はいって、裏にきゅっと曲がってた。
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| 井 |
富貴は残念ながら行ったことないんですわ。弥生座はありましたね。
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| 礒 |
ありましたな。弥生座は京極日活やったんですわ。そやしその後、日活ロマンポルノやってましたやろ。昔は、京極日活やった。そんで帝国館が京都日活やった。今は、弥生座の1と2ですけど、前はテアトル72、一つの建物ですな。テアトル72が地下で弥生座が上。
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| 井 |
僕が高校の時、1972年にテアトル72になりましてん。洋画の低価格1本立でしたな。
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| 礒 |
そうでっか。菊映と文映いうのんは、洋画の2番館みたいなもんどした。文映は河原町蛸薬師にあった。
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| 井 |
全然知らんわ。
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| 礒 |
今のパチンコ屋のとこが、ぜんぶ文映やった。河原町に面してた。ここはねえ、2番館の洋画2本立やってた。今の祇園会館みたいなやつやね。河原町の京劇は、戦前はアイススケート場とニュース映画館やった。細長い細長い、河原町から木屋町までの、縦に長い長いスケートリンクやった。ほんで、上にニュース館があった。
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| 井 |
へー! 全然知らんかった。
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| 礒 |
京洛劇場もあとからニュース館になるんですけど。ニュースばっかり見せよる訳。ワーナーパテーニュースとか、朝日ニュースとか日本ニュースとか、ニュースばっかりずーっと。
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| 井 |
ニュース館は安いんですか。
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| 礒 |
普通の劇場よりちょっと安い。ニュース5本ぐらい、だーっと見せよる訳。そやし、10分ぐらいのやつを5本やって、漫画2本ぐらいつける。
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| 井 |
新聞読む代わりやね。
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| 礒 |
そう。それに世界の出来事がわかる訳。ワーナーパテーニュース見たら、ボクシングかてわかる訳。新聞で答え知ってるけど、どんなんかわからへんやつが、バンバンが見える。ロッキー・マルシアーノの試合が見られる訳や。テレビも全然あらへん時代やから。
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| 井 |
テレビの代わりしとった訳やね。それがニュース館ね。京洛劇場は、東映の2番館やったような?。
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| 礒 |
封切もやってましたよ。ここで『飢餓海峡』とか『冷飯とおさんとちゃん』とか『鮫』とかやった。『冷飯とおさんとちゃん』は、ここで見ましたわ。
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| 吉 |
『冷飯とおさんとちゃん』ここでやったんですか。あれ4、5日で終わったんですよねえ。
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| 井 |
えらい貴重やな。あれ1つの映画やと思たら、3つの映画やったんやね。
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| 礒 |
そう。オムニバスってわからへんねん、日本人なれてへんから。外国はオムニバスいっぱいあるさかいね。先に外国映画でオムニバス見てるさかいわかってんにゃけど、終わったんかいなと思たら、え、また始まる言うて。こんな短い映画かいな、言うてね。ええ映画でしたけどな。
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| 井 |
京都宝塚劇場は、実際にタカラヅカのレビューが来たんですよね。
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| 礒 |
私タカラヅカ見ましたもん。戦後でっせ。月組公演。月組の組長さんの室町良子さんが、うちの知り合いでしてん。「室町良子さん出はんで」言うて、子供の時観に行った。丸物の裏の方に住んではって、そこのうちとうちが懇意でしたんで、タカラヅカの切符もその人に取ってもろうて観に行った。「京宝でやらはんで」いうてね。オーケストラピットもエプロンステージもついてました。
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| 井 |
そういえばエプロンついてたね。今の1階の本屋のとこね。
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| 礒 |
今の京都宝塚劇場は、2階と3階を客席にしとる訳。あの斜面は。そんでひどいの。平場が空間やったの。
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| 井 |
天井つけた訳やね。
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| 礒 |
そうそう。そこへ地べたつけよった訳や。あそこで『ローマの休日』観た時に、あの2階と3階の通路の階段に新聞ひいて見たんやもん。そこが今、京宝のええ場所になっとんねん。
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| 井 |
なるほどねえ。スカラ座は、その時ありましたか。
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| 礒 |
あらしまへん。スカラ座はだいぶ後からです。スカラ座のオープンは足の手術した時やさかい、昭和31年ぐらいです。「東洋一のエスカレーター」言うて、あの長さが売りもんやったんやもん。
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| 井 |
おもろいな、そら。田園シネマちゅうのは? いま集合ビルになってますけど。
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| 礒 |
三条の田園か。ここは1階がスナックやらがあって、上に映画館がありましたんや。
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| 井 |
ダンスホールは?
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| 礒 |
仏光寺のほう。いまオフィス・ビルになってる。あそこにも映画館あった。
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| 井 |
晩年にピンク映画館になった時を知ってますわ。
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| 礒 |
あれ最初は洋画の2番館やっとったんですわ。
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| 井 |
東宝公楽言うのは、公楽劇場が無くなった時、あの場所に新しく出来たなという感じがあるんですけど。前からありましたか。
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| 礒 |
ここは大沢商会いうて、カメラの輸入やらしてはった普通の建物でした。昭和34,5年に公楽会館は、高島屋が大きなる時に無くなって、場所を移動しました。『釈迦』がオープニングやった。大映と大沢商会が組んで、ここへビル建てよった。大映がへたったさかい、東宝になりよった。
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| 井 |
大映末期の頃に、関根恵子やらの出てたややこしい映画を、中3か高1の時に観ましたわ。増村保造の「遊び」とか、後から考えたらええ作品もあるんやけどね。当時は、渥美マリとかも出ててね。いやらしい映画やから観たいと思てたんやね。朝日会館はどうですか。古いですね。
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| 礒 |
朝日会館は戦前からの東郷青児の壁画があって。戦後あれは一回、描き直したんですわ。今でも原画は残ってるんちゃうかな。ビルの北側に埋め込んであるね。あれを、寺町のお墓にやぐら組んで、そこからワイヤレスマイクで指示しとる訳。壁面に碁盤の目を引いて、「Aの何番のとこ、何センチづらせ」とか、わいわい言うてる。あれ見てるのおもしろかったでっせ。
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| 井 |
描き直しの時、見たはったんですか。
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| 礒 |
はあ。「何号の色」言いよったら、それ塗りよんのやろね。方眼紙みたいに区切ってあるとこを、向こうからの命令を受けよるやつが、何階にも階段になっている所で描いていきよる訳。
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| 井 |
僕は71年か72年?、高校生の頃でしたけど、前の映画館の最後の時に5日間サヨナラ上映があって、それぞれに解説がついたんです。『羅生門』には淀川長治の解説がついて、コスタ・ガブラスの『Z』もこの時やりました。ルキノ・ビスコンテイの『地獄に墜ちた勇者ども』もあったな。
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| 礒 |
朝日会館は2階と3階が急な斜面でね、2階から4階までがワンフロアやったんやから。1階があるのにすごい急で、さかさまから落ちそうな感じやった。
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| 井 |
昔はそういう急斜面の客席が多かったね。昔の南座も上の方は急斜面やったね。
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| 礒 |
そうです。こんなんなって、観てた。
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| 井 |
お年寄りは気の毒なぐらいやね。御池の寺町にエンパイアってあったでしょ。
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| 礒 |
今の本能寺会館の西隣やったね。
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| 井 |
銀行の上にあったんやけど、あれは昔からあったんですか。
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| 礒 |
いや、戦後です。
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| 井 |
あれは最初から3番館、2番館やったんですか。
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| 礒 |
そうですわ。封切はやったことない。
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| 井 |
ちょっと立地が悪いからね。文映は全然知らんかったな。
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| 礒 |
文映ちゅうのは、ええとこやったんでっせ。
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| 井 |
そうですか。これずっと下がってきて、花月は戦前からある。
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| 礒 |
京都日活は戦前は帝国館。
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| 井 |
戦後になると、日活は昭和30年ぐらいからが再スタートやから、それまでは帝国館て言うてたんですか。
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| 礒 |
そうです。そのまま帝国館言うてましたわ。帝国館と京映は、地下から入って行って、階段登ったら、スクリーンの前の真ん中から、二手に分かれて出られるように階段がついてた。最前列へ入って行けるようになってました。下から入れといて、お客さんが帰って行ったら、前から入れる。
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| 井 |
それはよう考えてはるね。ここの日活の場所、帝国館のとこは、戦時中はこの辺の防空壕やったらしいですよ。地下になっててね。僕の知ってる時は、水車という喫茶店になってました。中に大きな水車があったな。その喫茶店の所からも入れるようになってましたわ。
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| 礒 |
あった、あった。その横に映画館の事務室があってね。SY京映は、階段があったとこにオットセイの彫りもんが、ばんとあったことを覚えてるな。
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| 井 |
いそやんが言うてはるのは今のSY京映やのうて、もひとつ前の建物ですね。
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| 礒 |
そうそう。557になるまでのこと。田中駒がしはる前の、結構大きいええ劇場でした。
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| 井 |
ここはもともと歌舞伎座やったと、この本には書いてありますけど。この本によりますと、大谷兄弟、竹次郎と松次郎が、京都の何処かにあった劇場を移築したのが歌舞伎座や、となっています。
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| 礒 |
新京極で稼いで南座買いよるんやからね。
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| 井 |
そうでしょうね。松竹は、新京極が「発祥の地」という気持ちがだいぶあるみたいで、今度のMOVIX京都(シネコン)の場所の選定で新京極にこだわってくれたのは、「発祥の地」だからみたいな気がします。
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| 礒 |
この辺りは松竹通りみたいなもんやからね。
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| 井 |
新京極は松竹ストリートなんやね。ちょっと入って、今は京極東宝だけになってますけど、ここに三友劇場とか新富座があったそうです。これはいつ頃まであったんですか。
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| 礒 |
昭和25,6年までありました。23年ごろに連鎖劇をやっとった。そら面白かったでっせ。
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| 井 |
外国ものですか。
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| 礒 |
邦画ですわ。連鎖劇ちゅうのは、日本人の映画に写ってるやつが、その場でぱっと芝居に変わるんですわ。林の中をばーっと追いかけられるところが、映画で写ってる訳。そんで、断崖絶壁に追い詰められたちゅう場面になると、その断崖絶壁のセットが舞台の上にばんと現れる。そんでスクリーンがするするっと上にあがって無くなったら、セットの岩のてっぺんに追い詰められたお姫さんと侍がいよる訳。
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| 吉 |
いきなりライブに変わるんですね。
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| 礒 |
そうそう。そこで今までスクリーンに写ってたやつが、そのホンマもんが、芝居を始めよる。
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| 井 |
それは、それ様に撮ったフィルムなんやね。
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| 礒 |
そうそう。連鎖劇を作って、それで興行で廻っとったんですわ。フィルムと役者がセットで全国を廻っとる訳。
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| 井 |
こないだUSJで見た『ターミネーター2』が、まさに連鎖劇やな。写ってる奴が出て来よる。シュワルツネッガーは出て来まへんで、そやけどあの格好してる奴が出て来よる訳。ほんで、客席の中にも方々から煙が立ち込めて、映画の中に立ち込めてる煙が、客席にも立ち込めてくる訳。スクリーンが無いようになると、そこで役者が出て来てやりとりをする。ほんで、またスクリーンへ戻ってゆく。
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| 礒 |
うまい事やっとんね。
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| 井 |
今の人は、はじめて見る手法で面白いと思うけど、昔からやってるんやね。
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| 礒 |
戦前からやっとる。
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| 井 |
この本見てたら、連鎖劇は結構ぎょうさんやっとるんですわ。連鎖劇、連鎖劇って、いっぱい書いてある。
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| 礒 |
私はここで見た記憶があるけど、三友劇場と新富座のどっちかが、京極大映かな、そういう名前に変わりまんね。ぼくら高校時代、「キョウダイ行こ、キョウダイ行こ」言うとった。なんや言うたらストリップですねん。クラスで「キョウダイ行こか」言うたら、「よっしゃ、よっしゃ」言うんやけど、それがストリップ見に行く合言葉でした。
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| 井 |
そうですか、ストリップになってたんですか。
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| 礒 |
そうそう。ほんで、ストリップの連鎖劇があったんですわ。映画の中で女が追い詰められていって、手を捕まれたところから、本物の踊り子さんが出てきはる。それを見た記憶があるわ。
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| 井 |
へー。それはすごいな。
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| 礒 |
その時分は、このコマ劇場のところが京極小劇場という名前でした。京極小劇場と京極大映がストリップでした。
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| 井 |
京都コマも急階段やったという記憶がありますわ。2、3階がものすご急やった。
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| 礒 |
寄席の時は、2階の座敷が坂になってるさかい、もう、こんななって、桟敷で見てたら前へこぼれそうになった。京都コマの寄席にも行きましたなあ。
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| 井 |
美松も早よからあったんですか。
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| 礒 |
美松は戦後キャバレーでした。ダンスホール美松。「アルバイトサロン・ひまわり娘」ちゅうのが売りもので、これがホンマのアルバイトやった。
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| 井 |
いまのキャバクラですな。
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| 礒 |
昼は銀行へ勤めてるとか、高島屋へ勤めてるとか、そういう人が終わってからアルバイトに出てきはる。ホンマのアルバイト娘ですわ。今の若い子は、学生がアルバイトで本職がサロンみたいなもんやさかいね。美松のダンスホールで、フランキー堺のシティ・スリッカーズのバンドやらが出とったんでっせ。
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| 井 |
生バンドやったんですか。
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| 礒 |
もちろん生バンド。美松ジャズ・オーケストラ言うとった。それが中澤寿士MBSアロージャズオーケストラ。あいつら、新日本放送ちゅうか毎日新聞に買われて大阪行ってしまいよった。中澤寿士と美松ジャズ・オーケストラが、ダンスのバンドやった。時々そこへ、シティ・スリッカーズやらがゲストで来とった。フランキー堺がドラム叩いてんの見てまっせ。
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| 井 |
中澤寿士さんは、後年素人名人会の審査員になられましたね。
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| 礒 |
そうそう。ダンスホールがあって、それが小さくなってから、地下に風呂屋が出来た。美松家族風呂ちゅうのがあった。その風呂屋が無くなって映画館に変わるんです。
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| 井 |
そうですか、映画館としては、新しいんですね。八千代館は? 建物は古いですけど。
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| 礒 |
八千代館は昔は日本映画やってたけど、戦後は外国映画の2番館になりました。『家路』をここで観ました。名犬ラッシーの映画。エリザベス・テーラーが子役で出てきよるやつ。その後、ストリップとピンク映画に変わりました。
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| 井 |
これを下がって、パレスは覚えてます。パレスのあった所は、体育館みたいな感じでしたね。
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| 礒 |
あれはアイス・スケート場。そやしアイス・パレスやったんです。スケート場になったのは、私が丁稚になった時分やさかい、昭和29年ぐらいですわ。京都にアイス・スケート場が無かったから、みな大阪のアリーナばっかり行ってた。「京都に出来た!」言うたんが、ここやったんです。
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| 井 |
アイス・スケートて、考えたら僕らの子供の頃まで流行ってたね。この頃あんまり流行らへんけど。
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| 礒 |
戦前は京劇のスケート場で、それが映画館になった。
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| 井 |
ここは、僕の印象ではすごく大きな劇場で、『アラビアのロレンス』を観ました。
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| 礒 |
スケート場をそのまま真ん中で区切って、そこスクリーンにして、スタンドそのままにして、スケート場に椅子ならべた劇場やったから、悪い劇場やったわ。音も悪かった。スクリーンの裏側にパレス日活が出来ましたやろ。もう一つパレス名画座があって、これがスタンドの下にあった。天井が斜めになってた。パレス名画座は階段の下にありました。
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| 井 |
パレス名画座は、僕の高校の時は東宝の2番館で、パレス日活は、パレス映画という名で洋画の封切りでした。
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| 礒 |
ここで『砂の女』を封切りました。
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| 井 |
ATGをやってたんですか。
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| 礒 |
そう。ATGがここへ来るまでは、朝日会館がATGやっとった。
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| 井 |
ATGの1,000万円映画のはしりぐらいの時までは、パレス名画座でやつてましたね。僕の高校時分まではやってましたわ。次に公楽会館とか公楽小劇場とかですけど…。
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| 礒 |
昭和30何年まで、高島屋が大きいなるまで、ここにあった。地下に公楽小劇場があった。私は公楽小劇場で『七人の侍』観てる。公楽会館は洋画やっとった。2000人ぐらい入れたさかい、高校の団体鑑賞がよう行ってました。
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| 吉 |
2000人言うたら、今の京都会館ぐらいですね。
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| 礒 |
3階の後ろから見たら、スクリーンちっちゃいちっちゃい見えるぐらい、大きい劇場やった。私は高校1年の時、学校全体でローレンス・オリヴィエの『嵐が丘』鑑賞に行きました。『ホフマン物語』とか『第三の男』とか。
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| 井 |
このごろ団体鑑賞はあんまり行かへんのかな。
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| 礒 |
学校が行きよらへん。映画館連れてきたら、帰り悪いとこ行ってしまいよるから。
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| 井 |
僕らの時は団体鑑賞がありまして、中学校の時、美松で『若者たち』観たな。あの頃の学校の先生は左寄りやったんやろね。また、同じ美松で、衣笠貞之助の『狂った一頁』のフイルムが発見された言うて、団体鑑賞で観に行ったんやけど、何やわからん映画でした。
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| 礒 |
難しかったんでっか。
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| 井 |
当時の前衛映画ですか?何やね、元の脚本が無うて、発見時にはどう編集していいのか、わからへんかったらしい。違ったとこひっつけてるんちゃうか、言うてね。
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| 礒 |
『狂った一頁』は文化博物館の地下に置いてますな。そこで、私も観ましたわ。
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