僕は、自分で趣味のホームページを持っています。新京極が映画のまちということで、そこで生まれ育って、うちの隣が京都花月(現パッサージオ)でした。そのお隣が帝国館で、のちの京都日活(現ダイアモンドビル)でした。小さい時から、その辺は顔パスで入れてもろてました。そういった事への思い出を書いた文章も、僕のホームページに「よもやま話」として載せさせてもらっています。以前から、いそやんには色々と教わっておりますが、それはわかりやすう言うと、大衆の娯楽ですね。お芝居や寄席や映画。でも、これらの中で放ったらかしにされて何も語られてへん部分がありますね。新京極でもチラシなどの記録に残っておりますが、実際にリアルタイムで見た方の印象やお話をお聞きして、HPに残したいと思いこの聞き書きを企画しました。



私は、昭和20年ぐらいからあとの話ですけど。

結構です。戦前までの事もね。聞いとかなあかん人も、だんだん死んでいかはるんで残念なんですけど…。いそやんは、昭和何年生まれですか。

私は、昭和9年生まれです。小学校入る前から、京極へ活動写真連れてもらうのが好きやった。うちには住み込みの職人さんが居てて、僕を連れてたら小遣いもらえるんです。「遜彦(やすひこ)さん連れて、活動写真行きまんねん」言うたら、うどん代と電車賃と映画賃もうて行ける訳です。

ほな自分が見たかったら、いそやんを連れて行けばええんやね。

そうそう。「遜彦さん、今度は阪妻ありまっせ」「ぜったい行く!」言うてね。ほんで子供の時から映画行ってましてん。

当時の新京極は、1番館ばっかりですか。

そらもう、ずーっと賑やかなもんどした。2番館もありましたよ。(地図を見ながら)松竹京映言わんと、当時は「京映」言うてたと思うな。昭和20年ごろはピカデリーが松竹劇場言うてたし。夷谷座言うてたんは、戦争が始まる前やと思います。昭和15、6年、僕は5つか6つの頃から見てます。

その頃から見てはって、その当時の新京極は戦争の影が濃くなってきたと思いますが、賑やかでしたか。

そら賑やかでした。

興行は朝の何時ぐらいからしてたんですか。

それはわかりませんなあ。日曜日は昼来てましたけど。朝ごはん食べたら「行こか」言うて連れてもろて、ぶらぶら歩いて映画観て、観終わってから昼飯の時がありましたから。朝からやってましたわ。

昭和37、8年でも、映画のはねる時間て、夜の10時ぐらいまでやってましたよ。

そうですね。7時から2本立てで最終が始まるんやから。

僕の子供の頃でも、朝から晩まで賑おうてた所という印象ありますね。

映画すんでから「かねよ」でうなぎ食べて、そうか寺町で「ムラセ」のわらじカツ食べる。ほんで「野澤屋」でおもちゃ買うてもろうて帰るというのが、子供にしたら、嬉しい大感激の日ですわ。

よう聞きますけど、昔、封建的な時代の従業員さん、丁稚さんは休みが少ないから、休みもうたら新京極界隈へ出てきて、遊んだそうですね。

休みは1日と15日ですから。小遣いある時やったら、寺町で首吊りの洋服を買い。

そうですてね。帰りに「ムラセ」のわらじカツや「スター」で洋食たべたら大散財やった。

そうですわ。松竹京映がSY京映になったのは戦後です。洋画チェーンになったさかい、松竹洋画でSYですわ。そやのに「寅さん」やりよるから、おかしいねん。SY京映が寅さんやってどないするねん。

戦争終わってからですが、北から行くと、京都座。

京都座、松竹座、ピカデリーが松竹劇場。あの頃は、瓦の屋根が見えてた。四条から見たら、あそこだけ瓦の屋根がどんと正面に見えてた。3階建ての屋根が、がばーっとね。

新京極は当時、アーケード無かったんですか。

あらしまへん。屋根が直通で見えてました。

うちのおばあさんやらに聞いたら、戦争の末期の頃は、道路の前のところを畑にしてた言うてましたもんね。

そらその時は、人やら居よらへんねんもん、最後の最後は。

戦後復興して、ぼちぼち興行も始まって、ピカデリーの所(現ろっくんプラザ付近)はどうでした。

ここは空家ですわ。ここ3つともなし。ここは香具師が出て、蝮に噛まして薬売ってた。それと青空楽団が出てきて、歌詞カード売ってアコーデオンとギターで一緒に歌を歌わす。「リンゴの歌」やらそんなん歌わせて、歌詞カード売りよる訳。みんなに歌を教えながら、歌詞カードを売っとった。流しのグループ、青空楽団です。

いま若いストリートミュージシャンがここでそんなんやってまんな。あんまり変わらへん。

コマ劇場はストリップやっとって、その間に西条凡児やらが出とった。お色気漫談。ストリップの間にやりまんね。

コントみたいなもんやね。

そやし、ダイマル・ラケットかて、ここ出てたはずですえ。

コマ劇場に?

はあ。寄席になってて、そのあとストリップに変わって、その間にコメディがちょこちょこっと入るやつやった。

なるほど。むかし梅田コマ劇場の隣に、トップホットシアターいう劇場があって、いとし・こいしとか、横山ホットブラザーズが出てましたな。今の南光さんも、最初にあそこ出たはった。なんで寄席がコマ劇場にあるのかなと思てましたけど、コマ劇場もってる会社は、もともと寄席を持ってたから、その名残りなんでしょうかね?それが京都にもあったちゅう訳でしょうね。

そうです、そうです。その時、富貴は寄席で、このストリップが無くなってから、富貴がストリップになりますねん。これは昭和30年ぐらいにならんと。それまで富貴は寄席でした。

京極ミュージック(ストリップ)は何となく覚えてます。今の大吉の靴屋さんの裏手の方になるんですね。

そうそう。角っこに1軒家があって、その横に路地があって、こう向けに劇場がありまんね。蛸薬師の裏側に。ほんで北側に高座があって、客席から北向いて見てた。あの路地が、今の靴屋のこう向こうに入って行くとこですわ。そやし今の靴屋さんは2軒分を使たはるんですわ。

蛸薬師側が路地になってたんですね。

そうです、そうです。蛸薬師側の横から路地はいって、裏にきゅっと曲がってた。

富貴は残念ながら行ったことないんですわ。弥生座はありましたね。

ありましたな。弥生座は京極日活やったんですわ。そやしその後、日活ロマンポルノやってましたやろ。昔は、京極日活やった。そんで帝国館が京都日活やった。今は、弥生座の1と2ですけど、前はテアトル72、一つの建物ですな。テアトル72が地下で弥生座が上。

僕が高校の時、1972年にテアトル72になりましてん。洋画の低価格1本立でしたな。

そうでっか。菊映と文映いうのんは、洋画の2番館みたいなもんどした。文映は河原町蛸薬師にあった。

全然知らんわ。

今のパチンコ屋のとこが、ぜんぶ文映やった。河原町に面してた。ここはねえ、2番館の洋画2本立やってた。今の祇園会館みたいなやつやね。河原町の京劇は、戦前はアイススケート場とニュース映画館やった。細長い細長い、河原町から木屋町までの、縦に長い長いスケートリンクやった。ほんで、上にニュース館があった。

へー! 全然知らんかった。

京洛劇場もあとからニュース館になるんですけど。ニュースばっかり見せよる訳。ワーナーパテーニュースとか、朝日ニュースとか日本ニュースとか、ニュースばっかりずーっと。

ニュース館は安いんですか。

普通の劇場よりちょっと安い。ニュース5本ぐらい、だーっと見せよる訳。そやし、10分ぐらいのやつを5本やって、漫画2本ぐらいつける。

新聞読む代わりやね。

そう。それに世界の出来事がわかる訳。ワーナーパテーニュース見たら、ボクシングかてわかる訳。新聞で答え知ってるけど、どんなんかわからへんやつが、バンバンが見える。ロッキー・マルシアーノの試合が見られる訳や。テレビも全然あらへん時代やから。

テレビの代わりしとった訳やね。それがニュース館ね。京洛劇場は、東映の2番館やったような?。

封切もやってましたよ。ここで『飢餓海峡』とか『冷飯とおさんとちゃん』とか『鮫』とかやった。『冷飯とおさんとちゃん』は、ここで見ましたわ。

『冷飯とおさんとちゃん』ここでやったんですか。あれ4、5日で終わったんですよねえ。

えらい貴重やな。あれ1つの映画やと思たら、3つの映画やったんやね。

そう。オムニバスってわからへんねん、日本人なれてへんから。外国はオムニバスいっぱいあるさかいね。先に外国映画でオムニバス見てるさかいわかってんにゃけど、終わったんかいなと思たら、え、また始まる言うて。こんな短い映画かいな、言うてね。ええ映画でしたけどな。

京都宝塚劇場は、実際にタカラヅカのレビューが来たんですよね。

私タカラヅカ見ましたもん。戦後でっせ。月組公演。月組の組長さんの室町良子さんが、うちの知り合いでしてん。「室町良子さん出はんで」言うて、子供の時観に行った。丸物の裏の方に住んではって、そこのうちとうちが懇意でしたんで、タカラヅカの切符もその人に取ってもろうて観に行った。「京宝でやらはんで」いうてね。オーケストラピットもエプロンステージもついてました。

そういえばエプロンついてたね。今の1階の本屋のとこね。

今の京都宝塚劇場は、2階と3階を客席にしとる訳。あの斜面は。そんでひどいの。平場が空間やったの。

天井つけた訳やね。

そうそう。そこへ地べたつけよった訳や。あそこで『ローマの休日』観た時に、あの2階と3階の通路の階段に新聞ひいて見たんやもん。そこが今、京宝のええ場所になっとんねん。

なるほどねえ。スカラ座は、その時ありましたか。

あらしまへん。スカラ座はだいぶ後からです。スカラ座のオープンは足の手術した時やさかい、昭和31年ぐらいです。「東洋一のエスカレーター」言うて、あの長さが売りもんやったんやもん。

おもろいな、そら。田園シネマちゅうのは? いま集合ビルになってますけど。

三条の田園か。ここは1階がスナックやらがあって、上に映画館がありましたんや。

ダンスホールは?

仏光寺のほう。いまオフィス・ビルになってる。あそこにも映画館あった。

晩年にピンク映画館になった時を知ってますわ。

あれ最初は洋画の2番館やっとったんですわ。

東宝公楽言うのは、公楽劇場が無くなった時、あの場所に新しく出来たなという感じがあるんですけど。前からありましたか。

ここは大沢商会いうて、カメラの輸入やらしてはった普通の建物でした。昭和34,5年に公楽会館は、高島屋が大きなる時に無くなって、場所を移動しました。『釈迦』がオープニングやった。大映と大沢商会が組んで、ここへビル建てよった。大映がへたったさかい、東宝になりよった。

大映末期の頃に、関根恵子やらの出てたややこしい映画を、中3か高1の時に観ましたわ。増村保造の「遊び」とか、後から考えたらええ作品もあるんやけどね。当時は、渥美マリとかも出ててね。いやらしい映画やから観たいと思てたんやね。朝日会館はどうですか。古いですね。

朝日会館は戦前からの東郷青児の壁画があって。戦後あれは一回、描き直したんですわ。今でも原画は残ってるんちゃうかな。ビルの北側に埋め込んであるね。あれを、寺町のお墓にやぐら組んで、そこからワイヤレスマイクで指示しとる訳。壁面に碁盤の目を引いて、「Aの何番のとこ、何センチづらせ」とか、わいわい言うてる。あれ見てるのおもしろかったでっせ。

描き直しの時、見たはったんですか。

はあ。「何号の色」言いよったら、それ塗りよんのやろね。方眼紙みたいに区切ってあるとこを、向こうからの命令を受けよるやつが、何階にも階段になっている所で描いていきよる訳。

僕は71年か72年?、高校生の頃でしたけど、前の映画館の最後の時に5日間サヨナラ上映があって、それぞれに解説がついたんです。『羅生門』には淀川長治の解説がついて、コスタ・ガブラスの『Z』もこの時やりました。ルキノ・ビスコンテイの『地獄に墜ちた勇者ども』もあったな。

朝日会館は2階と3階が急な斜面でね、2階から4階までがワンフロアやったんやから。1階があるのにすごい急で、さかさまから落ちそうな感じやった。

昔はそういう急斜面の客席が多かったね。昔の南座も上の方は急斜面やったね。

そうです。こんなんなって、観てた。

お年寄りは気の毒なぐらいやね。御池の寺町にエンパイアってあったでしょ。

今の本能寺会館の西隣やったね。

銀行の上にあったんやけど、あれは昔からあったんですか。

いや、戦後です。

あれは最初から3番館、2番館やったんですか。

そうですわ。封切はやったことない。

ちょっと立地が悪いからね。文映は全然知らんかったな。

文映ちゅうのは、ええとこやったんでっせ。

そうですか。これずっと下がってきて、花月は戦前からある。

京都日活は戦前は帝国館。

戦後になると、日活は昭和30年ぐらいからが再スタートやから、それまでは帝国館て言うてたんですか。

そうです。そのまま帝国館言うてましたわ。帝国館と京映は、地下から入って行って、階段登ったら、スクリーンの前の真ん中から、二手に分かれて出られるように階段がついてた。最前列へ入って行けるようになってました。下から入れといて、お客さんが帰って行ったら、前から入れる。

それはよう考えてはるね。ここの日活の場所、帝国館のとこは、戦時中はこの辺の防空壕やったらしいですよ。地下になっててね。僕の知ってる時は、水車という喫茶店になってました。中に大きな水車があったな。その喫茶店の所からも入れるようになってましたわ。

あった、あった。その横に映画館の事務室があってね。SY京映は、階段があったとこにオットセイの彫りもんが、ばんとあったことを覚えてるな。

いそやんが言うてはるのは今のSY京映やのうて、もひとつ前の建物ですね。

そうそう。557になるまでのこと。田中駒がしはる前の、結構大きいええ劇場でした。

ここはもともと歌舞伎座やったと、この本には書いてありますけど。この本によりますと、大谷兄弟、竹次郎と松次郎が、京都の何処かにあった劇場を移築したのが歌舞伎座や、となっています。

新京極で稼いで南座買いよるんやからね。

そうでしょうね。松竹は、新京極が「発祥の地」という気持ちがだいぶあるみたいで、今度のMOVIX京都(シネコン)の場所の選定で新京極にこだわってくれたのは、「発祥の地」だからみたいな気がします。

この辺りは松竹通りみたいなもんやからね。

新京極は松竹ストリートなんやね。ちょっと入って、今は京極東宝だけになってますけど、ここに三友劇場とか新富座があったそうです。これはいつ頃まであったんですか。

昭和25,6年までありました。23年ごろに連鎖劇をやっとった。そら面白かったでっせ。

外国ものですか。

邦画ですわ。連鎖劇ちゅうのは、日本人の映画に写ってるやつが、その場でぱっと芝居に変わるんですわ。林の中をばーっと追いかけられるところが、映画で写ってる訳。そんで、断崖絶壁に追い詰められたちゅう場面になると、その断崖絶壁のセットが舞台の上にばんと現れる。そんでスクリーンがするするっと上にあがって無くなったら、セットの岩のてっぺんに追い詰められたお姫さんと侍がいよる訳。

いきなりライブに変わるんですね。

そうそう。そこで今までスクリーンに写ってたやつが、そのホンマもんが、芝居を始めよる。

それは、それ様に撮ったフィルムなんやね。

そうそう。連鎖劇を作って、それで興行で廻っとったんですわ。フィルムと役者がセットで全国を廻っとる訳。

こないだUSJで見た『ターミネーター2』が、まさに連鎖劇やな。写ってる奴が出て来よる。シュワルツネッガーは出て来まへんで、そやけどあの格好してる奴が出て来よる訳。ほんで、客席の中にも方々から煙が立ち込めて、映画の中に立ち込めてる煙が、客席にも立ち込めてくる訳。スクリーンが無いようになると、そこで役者が出て来てやりとりをする。ほんで、またスクリーンへ戻ってゆく。

うまい事やっとんね。

今の人は、はじめて見る手法で面白いと思うけど、昔からやってるんやね。

戦前からやっとる。

この本見てたら、連鎖劇は結構ぎょうさんやっとるんですわ。連鎖劇、連鎖劇って、いっぱい書いてある。

私はここで見た記憶があるけど、三友劇場と新富座のどっちかが、京極大映かな、そういう名前に変わりまんね。ぼくら高校時代、「キョウダイ行こ、キョウダイ行こ」言うとった。なんや言うたらストリップですねん。クラスで「キョウダイ行こか」言うたら、「よっしゃ、よっしゃ」言うんやけど、それがストリップ見に行く合言葉でした。

そうですか、ストリップになってたんですか。

そうそう。ほんで、ストリップの連鎖劇があったんですわ。映画の中で女が追い詰められていって、手を捕まれたところから、本物の踊り子さんが出てきはる。それを見た記憶があるわ。

へー。それはすごいな。

その時分は、このコマ劇場のところが京極小劇場という名前でした。京極小劇場と京極大映がストリップでした。

京都コマも急階段やったという記憶がありますわ。2、3階がものすご急やった。

寄席の時は、2階の座敷が坂になってるさかい、もう、こんななって、桟敷で見てたら前へこぼれそうになった。京都コマの寄席にも行きましたなあ。

美松も早よからあったんですか。

美松は戦後キャバレーでした。ダンスホール美松。「アルバイトサロン・ひまわり娘」ちゅうのが売りもので、これがホンマのアルバイトやった。

いまのキャバクラですな。

昼は銀行へ勤めてるとか、高島屋へ勤めてるとか、そういう人が終わってからアルバイトに出てきはる。ホンマのアルバイト娘ですわ。今の若い子は、学生がアルバイトで本職がサロンみたいなもんやさかいね。美松のダンスホールで、フランキー堺のシティ・スリッカーズのバンドやらが出とったんでっせ。

生バンドやったんですか。

もちろん生バンド。美松ジャズ・オーケストラ言うとった。それが中澤寿士MBSアロージャズオーケストラ。あいつら、新日本放送ちゅうか毎日新聞に買われて大阪行ってしまいよった。中澤寿士と美松ジャズ・オーケストラが、ダンスのバンドやった。時々そこへ、シティ・スリッカーズやらがゲストで来とった。フランキー堺がドラム叩いてんの見てまっせ。

中澤寿士さんは、後年素人名人会の審査員になられましたね。

そうそう。ダンスホールがあって、それが小さくなってから、地下に風呂屋が出来た。美松家族風呂ちゅうのがあった。その風呂屋が無くなって映画館に変わるんです。

そうですか、映画館としては、新しいんですね。八千代館は? 建物は古いですけど。

八千代館は昔は日本映画やってたけど、戦後は外国映画の2番館になりました。『家路』をここで観ました。名犬ラッシーの映画。エリザベス・テーラーが子役で出てきよるやつ。その後、ストリップとピンク映画に変わりました。

これを下がって、パレスは覚えてます。パレスのあった所は、体育館みたいな感じでしたね。

あれはアイス・スケート場。そやしアイス・パレスやったんです。スケート場になったのは、私が丁稚になった時分やさかい、昭和29年ぐらいですわ。京都にアイス・スケート場が無かったから、みな大阪のアリーナばっかり行ってた。「京都に出来た!」言うたんが、ここやったんです。

アイス・スケートて、考えたら僕らの子供の頃まで流行ってたね。この頃あんまり流行らへんけど。

戦前は京劇のスケート場で、それが映画館になった。

ここは、僕の印象ではすごく大きな劇場で、『アラビアのロレンス』を観ました。

スケート場をそのまま真ん中で区切って、そこスクリーンにして、スタンドそのままにして、スケート場に椅子ならべた劇場やったから、悪い劇場やったわ。音も悪かった。スクリーンの裏側にパレス日活が出来ましたやろ。もう一つパレス名画座があって、これがスタンドの下にあった。天井が斜めになってた。パレス名画座は階段の下にありました。

パレス名画座は、僕の高校の時は東宝の2番館で、パレス日活は、パレス映画という名で洋画の封切りでした。

ここで『砂の女』を封切りました。

ATGをやってたんですか。

そう。ATGがここへ来るまでは、朝日会館がATGやっとった。

ATGの1,000万円映画のはしりぐらいの時までは、パレス名画座でやつてましたね。僕の高校時分まではやってましたわ。次に公楽会館とか公楽小劇場とかですけど…。

昭和30何年まで、高島屋が大きいなるまで、ここにあった。地下に公楽小劇場があった。私は公楽小劇場で『七人の侍』観てる。公楽会館は洋画やっとった。2000人ぐらい入れたさかい、高校の団体鑑賞がよう行ってました。

2000人言うたら、今の京都会館ぐらいですね。

3階の後ろから見たら、スクリーンちっちゃいちっちゃい見えるぐらい、大きい劇場やった。私は高校1年の時、学校全体でローレンス・オリヴィエの『嵐が丘』鑑賞に行きました。『ホフマン物語』とか『第三の男』とか。

このごろ団体鑑賞はあんまり行かへんのかな。

学校が行きよらへん。映画館連れてきたら、帰り悪いとこ行ってしまいよるから。

僕らの時は団体鑑賞がありまして、中学校の時、美松で『若者たち』観たな。あの頃の学校の先生は左寄りやったんやろね。また、同じ美松で、衣笠貞之助の『狂った一頁』のフイルムが発見された言うて、団体鑑賞で観に行ったんやけど、何やわからん映画でした。

難しかったんでっか。

当時の前衛映画ですか?何やね、元の脚本が無うて、発見時にはどう編集していいのか、わからへんかったらしい。違ったとこひっつけてるんちゃうか、言うてね。

『狂った一頁』は文化博物館の地下に置いてますな。そこで、私も観ましたわ。


聞き書き「いそやん大いに語る〜ええとこ新京極〜」 後編へ続く