では、映画館の話を一通り聞かせてもらったので、いよいよ本日の本題に入りたいと思います。実演について聞きたかった。ここに書いてあるのは、「戦前花月劇場の人気スター辻野良一」です。

辻野良一は、戦後に観ました。「鼠小僧次郎吉」を花月で観た。

どんなジャンルの人ですか。

小芝居(こしばい)です。小芝居いうのんは、大劇場というか、檜舞台に出られない、門閥以外の人がやっているお芝居のことです。小芝居は常敷幕が使えない。だから「緞帳芝居」ともいいまんね。常敷幕が使えるのは大歌舞伎(おおかぶき)だけです。昔は江戸三座で色の並び方が違た。今でも市村座と中村座と森田(途中から守田)座は、黒・緑・茶の並び順が違うんです。今、歌舞伎座と松竹座だけが、森田座の色を使うとるはずです。「鼠小僧次郎吉」観てね、「辻野良一、日本一」言うて声かけた人がいてはった。

こういう人は花月劇場の専属ですか。

そうでもありません。日本中廻ってはる。年に3回ぐらい来はる。

興行形態としては、今と同じように月に25日ぐらいしてはったんですか。

それははっきり覚えてへんけど、ひと月やってたと思いますなあ。

それと映画が一緒やったんですか。

辻野良一の芝居の時は実演だけでした。

つまり一枚看板でいけた、ちゅうことですね。

松竹座が実演と映画やってたんです。高田浩吉が『弥次喜多道中記』いう芝居やって、『大学三羽烏』ちゅう映画と二本立て。映画と実演。

映画と実演いうたら、日に何回実演しはるんですか。

日に3回ぐらいです。1時間ぐらい実演して、映画が掛かる。映画が終わっても、お客さんは帰りません。当時は入れ替えと違うから。

朝から晩まで、高田浩吉3回観はる訳やね。

実演2回、映画が3回、そんなん違うかな。

戦前までは、吉本は寄席ですが、戦後は劇場が焼けてしもたんで、林正之助さんが映画に衣替えして、そっちが儲かったんで長いこと映画館やったはった。昭和35年ぐらいから、寄席を復活して、梅田花月を皮切りに、流行り出したと言われていますね。ものの本によるとその時に、今までの寄席のファンと違う若い層を狙うために、少しモダンなものをやろうという事で、ポケット・ミュージカルを始めはったそうですね。

あの時に財津一郎が出てきまんね。秋山たか志、ヘレン杉本…。ヘレン杉本が、青い目のゲイシャ・ガールになって、都都逸やら歌てた。

いそやんは、京都花月が再び寄席になってからも行かはったんですか。

もうその頃は、寄席に変わった頃から上席・中席・下席と、毎回見てました。ひと月3回。

それはえらい。最初はエンタツ・アチャコも出てたんですか。

エンタツ・アチャコは、もっと前。平安高校が甲子園で優勝した時に、戦後はじめて漫才組んだんですわ。昭和25年ぐらい。その優勝した日に見てる訳。そしたらネタの中でアチャコが「平安勝ちましたで」言いよったもん。

時事ネタやね。

エンタツ・アチャコは別売りで売れたさかい、絶対一緒に組ませよらへん。映画の時だけ一緒でんね。実演かて、エンタツ劇団とアチャコ劇団が合併でやったのは、京都座で観てますけど…。このコピーにおまんわな。昭和24年、これ珍しいことでっせ。ふたり合わさんかて儲かるから。この時、時代劇観たような気がするなあ。捕物帖やったかなあ。そこで「人相書き見せ」言われて、「よごれた越中ふんどし1本」「あ!それ、僕の質札や」言うたんが面白かった。「ふんどし、質屋に入るかい」ちゅうてね。おかしいて、もう忘れられへん。むちゃくちゃ面白かった。

とぼけた味があったんやろなあ。京都花月の再開直後の戻りますと、この番組表見たら、戦前からの一枚看板がまだ出とって、戦後の人気者になった人も一緒に出てたのかな。

ベティ領一って面白かったなあ。

僕はここでわかるのは、手品のワンダー天勝ぐらいかなあ。それからルーキー・新一も出とる。浅草四郎・岡八郎ね。

浅草四郎のほうが上等やったんです。奥目の八ッちゃんは、ついでに出とった。こういうのは全部観てますわ。

富貴ちゅう寄席は、畳敷きですか。

いや、1階は椅子で、2階は畳でした。Uの字にまいてました。後ろはゆるい傾斜の畳で、座布団があった。

ゆるい傾斜の畳て、見にくそうやね。

そやし、前へ転びそうになる。あんまり喜んで乗り出したら、ごろんとゆきそうになる。

足抱えながら見てる分にはいいけど、普通に坐ってると前に転げそうやね。ここでは、どんなん観はりました。

二代目の春団治観ましたわ。今のお父さんやね。私の高校3年の時に死にましたんや。昭和27、8年ぐらいに。「春団治出てるさかい見に行こ」言うて、友達やら学校さぼらせて富貴に来たら、その日休演やった。「春団治休演につき富士月子代演します」言うて、富士月子の浪曲に代わってた。そいつら可愛そうに、春団治知らへん。そのままアウトになりました。

前に本で読んだんですけど、コワイ顔して「あーちゃん」言うたはった6代目の松鶴が富貴出てた時は、明治湯ちゅう麩屋町蛸薬師のとこにあったお風呂屋によ〜行ってたいうて。

あれはその頃、まだ枝鶴でした。お父さんの名前が大きすぎたから、まだ松鶴を継いでなかった。そんでだいぶたってから、「シカクがショカクに昇格いたしました」言うて出てきよった。

米朝さんの本を読んでたら、ここには米朝さんも出てはったそうですね。

米朝さんは京都で聴いたことおへんな。

ここは京都の寄席の中では一番有名な場所やったんでしょうね。

いとし・こいしや五九童・蝶子は、松竹芸能やったから、南座の寄席名人会にしか来よらへんかった。南座で芝居おわってから、28,29,30日ぐらいで寄席やってました。

そういうのがあった記憶がありますね。京都座には、昭和19年に「関西大歌舞伎の大衆興行」というのがありますが、大衆興行というのはどういうことですか。

値段が安いということでしょう。

厚生劇って何ですか。

社会劇みたいなもんですわ。新劇みたいなもんやね。

これで見ると、芝居と芝居の間に高田浩吉の歌謡ショウが入ってて、半日楽しめるように作ってある訳ですな。

関西大歌舞伎いうのは、関西勢ばっかりでやってまんな。関西の役者ばっかりや。中村梅玉は6代目菊五郎の相手役を何回もやってましたから、ここでも看板やね。

「夕方から全部見られます」「見た所まで見られる入れ替えなし」やから、2回やってたんでしょうね。この時は10日ぐらいしかやってませんね。

これは戦争中の一番あかん時やね。昭和19年9月言うたら、全然あかんわな。

昭和22年になると芦乃屋雁玉・林田十郎が出てきます。俄芝居のようなものですか。

いやいや、完全な漫才師です。雁玉・十郎は、NHKの「いらっしゃいませ、こんばんわ」ちゅうラジオ番組に出て司会をしてました。漫才師が芝居を組んで出てたんですな。ええコンビでしたわ。雁玉・十郎は森繁と香川京子の映画に出てきますわ。

『猫と庄三とふたりのをんな』ですね。

そうそう、かき氷屋のおっさんか何かで出てた。

芦屋の浜へ行くあたり、お鍋たかせてもらうあたりやったかな。

そうそう。あれ、雁玉か十郎か、どっちかが出てきよる。

そんなん聞いてたら、フィルムは貴重やね。そうやって全部残るからね。ワカナ・一郎でも、『お伊勢詣り』で全部残ってるからね。

ワカナ・一郎は戦前を引きずってた漫才の大御所やさかいな。あいつらがへたりよって、ミス・ワカサ・島ひろしが売り出したんやから。

ワカナさんいうのは、全国の方言をいっぺん聞いたたけでも覚えてしまわはって、その場で喋れるような才能を持ってはったと聞いてますが。

ものすご上手やった。音が取れたね。

『国防婦人会』いうネタが有名ですね。聴かはったことありますか。

ラジオでしか聴いたことない。ワカナもおもろかったけど、ワカナ・一郎いうのんは、ええコンビやったなあ。

ものの本によると、しゃべくり漫才はエンタツ・アチャコが始まりやけど、戦前までの漫才は何かしらの音曲漫才とありますな。

そうそう。そんで「わし」「おまえ」やったんを、「きみ」「ぼく」にしたんがエンタツ・アチャコ。

なるほど。音曲漫才は、いそやんの印象ではどのくらいまで残ってたんですか。

捨丸・春代が最後かな。戦後は捨丸・春代ぐらいですわ。三人奴もトリオの音曲のクチやね。

音楽ショウみたいな形になっていったんですよね。

ボーイズになってくるのは、東京であきれたボーイズが出てきたからですわ。山茶花究、益田喜頓…。

今日、もひとつ聞きたかったのは、映画に出てる喜劇人は、エンタツ・アチャコでもそうですが、もともとは関西ベースの人が全国区になるケース。それと逆に、たとえば古川ロッパやキドシン(木戸新太郎)やシミキン(清水金一)みたいに東京ベースの人気者は、関西では、とくに子供から学生にかけてのいそやんみたいな若い人にとっては、どうでしたか?まず、映画で観て人気ありますね。

ありましたわ。面白かった。そやし、浅草へ観に行ける訳ないねし、映画でしか知らんさかい。あいつらが舞台人やという事も知らんけど、映画の中のおもろい奴やとして知ってる訳。エノケン(榎本健一)、キドシン、シミキン言うたら、おもろい奴やと決まってる訳。

ははあ。不思議なことに、ここ最近10年ぐらい日本映画で、喜劇人が総出演するそういう面白い映画はほとんど作られてませんね。

作られてまへんな。

変わった映画はあるねんけどね。石橋義正さんの『狂わせたいの』とかアバンギャルドな映画はあるんやけど。喜劇人が出る映画はありませんねえ。

日本の喜劇映画はおへんな。かろうじてちょっと残ってたのは、「男はつらいよ」の中で、山田洋次がちょこっと使とるぐらいで、もうあの手があらへんのや。

個人的には、東映のB面にちょこっと出て来る由利徹や佐山俊二、南利明なんか良かったけどね。「寅さん」が無くなったから、今は「釣りバカ日誌」ぐらいなんかな。それもコメディという感じではないですね。

あれは漫画のコミックやさかいね。

古川ロッパやエノケン、キドシン、シミキンの実演は見はったことありますか。

そらあります。古川ロッパは来ましたけど、エノケンはこっち来てませんわ。エノケンは、私東京行って見てます。ロッパは来たけど、芝居と違います。漫談みたいなもんやった。

歌謡声帯模写はロッパが作ったそうですね。

そうです。ほんで大辻司郎が出てきて、漫談でゆくという奴が出てきよるんです。ぼくが見たロッパは、漫談みたいな型ですわ。

面白かったですか。

東京の感覚やさかい、関西の感覚とはちょっと違いましたわ。

洒落すぎてるのかな。くすっというやつかな。

そうそう。おっさんらは「こんなもんが何でおもろいねん」というような顔しとるし、大学生みたいなやつが喜んで笑とる。ぼくはどっちが合うてんのんかいな、と思って見てる状態やった。笑いよらへんおっさんが正しいのか、くすくすいうとる学生が合うてんのか。

それ、こないだ読んだ本に書いてた話に似てますな。新宿と浅草の軽演劇は違うと。新宿はサラリーマンや学生が見てるから、レベルの高い話をすると受ける。浅草はどっちかいうと、おっちゃんおばちゃんが見てるから…と書いてあった。伊東四郎なんかは新宿で育ったから、軽演劇でも洒落た感じがありますな。

そうそう、こないだおかしかったのは、伊東四郎が北大路欣也とうちへ来て、いろいろ話してたんやけど、ピカデリーの所で裁衣(たっつき/袴の一種)着て草加せんべい売ってたおっさん居よりましたやろ、それがキドシンの息子やて、伊東四郎が言いまんね。「僕が京極歩いてたら、知ってる奴がいるんだよ。キドシンさんの息子が、あそこでせんべい売ってるんだ」って。

へー。何年ぐらい前ですか。

カメラ屋へなるまで。いまカメラ屋かいなフィルム売ってますやろ。あそこで売ってた。印半纏(しるしばんてん)着て。

ああサカエの前のとこやね。ほな、ついこないだやね。そうや、売ってた売ってた。そのおっちゃんね、龍鳳て言う近くの中華料理屋さんに、毎日昼飯食べに来たはった。

それがキドシンの息子やて。

へー、わからんもんやね。普通の人やないいう感じはしたけど。普通の人やない言うのんは、ちょっと晴れやかな感じのする粋な人でした。いま言うたキドシン・シミキンいうのは、どっちかいうと上品な感じですか。

いやいや、まさに庶民的。

それ何年ぐらいのことですか。

昭和23、4年ぐらいから30年ぐらいまでは、やってました。キドシンは29年ぐらいに東京へ出張した時に、日劇ミュージック・ホールでストリップの間に出てました。その時懐かしかったけどなあ。それが、村松梢風作「桃色の手袋」言うの。

村松梢風言うのんが、いまの村松友視のお父さんやね。

文豪やった。

そやね。昔はなんちゅうのかな、ストリップがちょっと高級やったんやね。裸とお色気は、今も一緒なんやけど、インテリ層が見に行くいう感じがあったんやろね。

武智鉄二は、ヌード能をやりましたがな。それも見てまんね。日劇ミュージックホールでストリッパーに「羽衣」の能をやらす。ストリッパーやさかい、水干(すいかん:公家の常用略服。私服、元服前の少年の晴着などに用いた)だけ着て能面つけて、「羽衣」のストーリーで天女の舞を舞いよる訳。武智鉄二がそれを演出しとるんですわ。「わし見ましたで」言うたら、武智鉄二びっくりしてよった。丁稚の頃ですわ。東京へ出張する言うたかて、日劇ミュージックホールと人形町の末広見とうて行ってるようなもんやさかい、会社は災難やね。

僕も今、それに近いもんがありましてね、東京へ行ったらいろいろ見せてもろてるんですけど…。戦後当時の新京極の雰囲気として、僕の想像では「鈴なり」ちゅうのがあってね。こないだ僕、1月31日に浪花座の閉館の時に見に行きましてん。ほな、ほんまに鈴なりですねん。そやのにどんどん切符売って人入れるもんやさかい。いくらでも後ろから人が入って来るでしょ。

私それ、花月でありましたわ。2階のお客さんが、1階の人の上へ落ちてきたんでっせ。

いそやんが落ちはったん?

私ちゃう。エンタツ・アチャコの平安高校優勝の時でんがな。花月の2階席は、袖の上にがーっとかぶさるようにつき出てまんね。ほんで、そこで見てはったお客さんが、1階で見てる満員の人の上へ、ずどーんと落ちて来よった。

うわー、えっらいこっちゃね。

そーやがな。そやけど誰も怪我しとらへんかったから、うおーて言うとったけど、舞台も何もそのまま進んだ。ほんまに鈴なり。昭和25年ぐらいに花月であった。

鈴なりちゅう印象は、僕の子供の頃の映画でもあるんです。当時の映画館は、今の指定席制とはまったく違う訳。満員でもなんぼでも入れよる。ほんでまた、なんぼでも入るんやね。さっきもいそやんが言うたように、入れ替え制と違うから人が滞留してて、いつまででも人が残ってるんやけど。

パレス日活で裕次郎の『鷲と鷹』の時やったかな。ドア開いてんのどっせ、閉まらへん、閉められへん。そやさかい後ろからスクリーンに光があたってよ〜見えへん。閉まらへんのやもん。画面の顔、半分しか見えへんし、見えへんさかいもっぺん見たいし、終わりになってもお客さん出て来よらへんねんもん。昭和33年ぐらいでっせ、そらすごい。むちゃくちゃでしたで、その時は。それが最後の満員やね。

*『鷲と鷹』昭和32年9月公開。ちなみに劇映画の年間観客数のピークは昭和33年、11億2,700万人だった。1年間に国民1人あたり12.3回、劇映画を見に行ったことになる。

『忠臣蔵』は、各社がやってますし、東映でも2回ぐらいやってますでしょ。ああいうのはやっぱり、12月頃にやってたもんなんですか。

それは関係ないと思う。

しばらく当たらんようになったら「忠臣蔵でも出しとこか」って感じですかね。そういう時に観る観客層の幅は、どんなもんでしたか。

そらもう広かった。年寄りも行っとるし、おじいちゃんが孫連れて来てるような人も居てはるし。

一番大きいとこは、そこやね。

子供も大人も全部観られる映画作らんといかんのですわ、そら。

昨今でいうと、MOVIX京都が、えらい当たっててね。『ハリー・ポッターと賢者の石』とか『ロード・オブ・ザ・リング』があるでしょ。観客層が広い。賑やかな客層ですね。若い人だけで当たってるいう感じと違うからね。

そうそう。それに、おっちゃんが行く映画と、若い人が行く映画が一緒の所でやってるからね。見てたら、最近夫婦連れが多なったね。ご老体の夫婦がいっぱい居はる。シニア料金で見られるし。

そういう意味では、映画館というのは、場所を考えて設備を良うしたら、来るんですな。

可能性はありますな。シネコンになったさかい、選べるちゅう事もあるんでっせ。これ観よ思て行ったけど時間的に観られへんかった、ほな次に始まるこれにしとこか。そない言うて、別のん見たけど、観たかった映画を見にもっぺん来よる。その日黙って帰らんと、別のん観といて、また来るんですわ。切符も1週間前から買えるしね。『ハリー・ポッターと賢者の石』も、早うに切符を買うといて、私が勝手に指定席と決めてる席で見た。この劇場はGの15と決めたある。

そらよろしな。

向こうはけったいなおっさんやと思とるやろね。

ええ楽しみ方で何よりでございますわ。ほな、お時間も来たようですし、
いそやん、今日は、えらいどうもありがとうございました。

2002年5月吉日 
採録・ 注釈:吉田 馨
構成:井上恭宏



   
この「聞き書き」は、田中泰彦先生が編集・解説された
「思い出のプログラム(新京極篇)」
<昭和55年・京を語る会発行>を見ながら、進めさせていただきました。
貴重な資料を出版された田中先生(私の中学時代、
塾の先生でもある)に感謝します。